神様なのか?自分自身なのか?
「目の前に起こる現実は神様からのギフトだ。何かのサインだから感謝して受け取ろう」
以前の僕はこう考えていた。嫌なことが起こっても自分のためと言い聞かせ、なんでもプラスに考えていたし、毎日ポジティブに過ごすようにしていた。
きっとあなたもそうしていた事もあるだろう。もしかしたら、いま現在もそうしているかもしれない。どうだろう?現実はよくなっているだろうか?
僕の場合は思うほど良くならなかった。
目の前に起こる現実を神様からのギフトと捉え、日々の生きていくを否定はしない。僕もその考え方で救われた事も何度かある。しかし、僕の望む現実が創造できたわけではない。きっと僕にはあまり合っていなかったのだろう。
最近不思議な体験をした。毎朝神棚の水やお米を変え手を合わせてから出勤していたのだが、忘れる日が何日かあった。不思議なことに、忘れた日の方が一日気分良く過ごせたのだ。そして、手を合わせた日は、何回か嫌なことが起こる。以前なら、この嫌なことは神様からのギフトと無理矢理ポジティブに考えていたのだが、この考えからも卒業することにした。
神様が神離れをしろといっている。
約10年間、毎朝出勤前に神棚に手を合わせて「いつもありがとうございます」と感謝を伝えていた。そうして救われた事もあるけれど、そろそろ神様が卒業しろといっている気がする。毎日の修行は終わりだといっている。自分から離れろといっている。そう。僕は毎日毎日、神様に頼って生きていた。依存していたのだ。
自分のなかに神ができた。
自分=神だ。自分が神になったのだ。全世界の神になったわけではないが、自分の人生の神になった。自分の中の神として、自分の中で創ったルールはこのようなことだ。
- 誰の顔色も気にしない。
- 他人の満足感を満たすためだけの人生を生きない。
- ワクワクすることを選ぶ。
- 完璧を目指さない。
- 毎日、自分を褒めちぎる。
自分の人生は自分が決める。自分のルールが人生を創る。起こる現実に一喜一憂していた毎日と決別し、自分の人生を自分で創ると決めた。自分の人生で自分が神なのだ。
意図的に神棚に手を合わせず出勤する事もしてみた。驚くことにこうした日の方が気分良く暮らせるのだ。決して、神と決別したわけではない。ふとした時には感謝している。神棚のお世話は毎日するだろうし、毎月月初の参拝はいくだろう。ただもう依存はしない。
自分の人生は自分で創っていくという感覚がやっと実感できた。人生がますます楽しみになってきた。
☆人生変えたきゃ、食べ物を変えよう☆